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納筆

こんにちわ~、のんびりのん子です!

このご挨拶で始まる私のブログも今回でひとまず最後にしたいと思っています。

一昨年の4月にSRSの決意をした日から今日までの約1年8ヶ月。


(タイで宣伝されているコマーシャルです)

若くて羨ましいほどの綺麗なMTFさんの中に、無謀にもこんなおばちゃんが仲間入りさせて頂き本当にありがとうございました。

当時、離婚をして明日への希望も失っていた時期に、多くの方からの励ましのお言葉を頂き、なんとかここまでやってこれる事ができました。

ブログを一先ず終わる気になったのは、昨日のブログを書かせていただいたからです。

自分の思いの半分も書けませんでしたが、それなりに表現できたと思っています。

昔と違い、今やマスコミやテレビを通じて、「性同一性障害」の認知度についても驚くほど高くなっています。

それでも、テレビに出演されている方を見ると、若くて綺麗なMTFさんと、歳の行ったオカマさんやゲイの方と言った2極化です。

日本で全国的な組織を持つ自助団体である、「gid.jp」のホームページにこんな調査結果が載っていました。

少し古い調査内容ですが参考になると思います


統計1
この表で気がつくのが30代以上の方が非常に多いという事です。

これらの年代になると結婚もされていてお子さんも居られる家庭も多い事でしょう。

当然、女性ホルモンを使用いているかたも沢山居られていると思います。

統計2
そして、こちらの統計では、SRSまで済ませた方は、たった一人になっています。

この数字だけを見て、SRSを済ませた方が一人しかいないと考えるのは早計です。

この自助会では、自分の性別に悩む若い方から40代を超える方までの多年齢層の方が出席されて自分の悩みを告白したり、先輩たちから助言を頂いたりしています。

ところが、SRSを済ませ、望みの性として一般社会に溶け込んでしまうと、大抵の方はこういった自助会から遠のいてしまいます。

SRSを済ませた方は沢山居られるはずなのですが、いわゆる、「埋没」という形で生活をしているのでこのアンケートに参加していないものと思います。

それと私の想像なのですが・・・

若い方の比率がすくないのですが、現時的には、若い方は、性同一性障害と診断されると、数年の間に性別適合手術を受けて望みの性になり戸籍も変更されて一般社会に溶け込んでいく方が多いようです。

そう言った方は、自助会から離れて行き、また新しいく、自分の性に悩むかたが入会されるといった具合に会員の交代が激しいと思われます。

それに比べて30代以上の特に既婚者の方は、ホルモン治療は行っているが、その先の性別適合手術へは、家族の反対を含めそれ以上進む事が出来ない状況なのかと思います。

特に40代、50代の方は、私と同じように20歳前後の若い頃には、「性同一性障害」という言葉すらなかった時代。

「男として生まれてきた限りは男らしくならなければ・・・」と世間の波に乗るように結婚をして・・・

そして数十年後、小さい頃からの性への違和感の原因が判明

妻がいる、子供もいる

でも、なにか充実感がない!

そんな不安な気持ちがつのる毎日

ホルモンは、ネットで調べてフライングで購入している方もいれば、きちんと病院で治療を受けているかたもいて人それぞれ。

でも、SRSまでは進む事が出来ない。

理由は人それぞれ


そう言った人たちの一つの例として私の体験記をこのブログで書かせていただきました。

私のように、最終的には、離婚をして子供達と離れ離れになり実の両親からも勘当されてしまいました。

それでも、私は後悔していません。

人それぞれ、環境が個々に違っていて、夫婦との信頼関係も全く違います。


独身の若い人と比べるととてつもないリスクを背おっています。

ただ一つ私が言いたいのは、決して後悔しない事。

自分の決めた道を信じて、それがたとえゆっくりとした進み方であっても決してあせらない事。

家族を絶対に恨まない事。

もし、もう一度この世に生まれて来れたら・・・

今度は、身も心も男として生まれ

改めて、別れた妻にプロポーズをします。

「結婚して下さい、良き夫として、そして良き父として、貴女と一生、過ごして行きたいです!」と


最後になりますが、既婚者で性同一性障害で悩む皆さんが一日も早く、自分らしい生き方が出来る日が来る事を祈っています。

努力は必ず報われますから!

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既婚者の性同一性障害の治療について:破局への道、そして新たなる旅立ち

こんにちわ~、のんびりのん子です!

とうとう、「既婚者の性同一性障害の治療について」の話題も今回で最終回になりました。

今回は、面白くない上にめちゃくちゃ長文です、読まれる方は覚悟してくださいね!


娘が早く嫁に行って幸せな家庭を築いて欲しいと願っていても、いざ嫁に行くとなるとても寂しくなります。

長女が生まれた時の事から、初めて歩き出した時の事、夏も暑い日に顔を真っ黒にして小学校から汗をびっしょりとかいて帰って来て私に「パパ、ただいま~」、可愛いセーラー風を着て通学していた中学時代。

そんな娘の姿が羨ましくてたまらなかった。

幼稚園の頃娘に、「だれが好きなん?大きくなったら誰と結婚するのん?」と尋ねると

「大きくなったら、お父さんと結婚するのん」

「お父さんの何処が好きなん?」と聞くと・・・

「お父さんのメガネを掛けているところ!」って

生まれた頃は、昼・夜が反転してしまっていて、いつも表が明るくなる朝の5時頃まで起きていてその頃からやっと眠り出します。

何度と無く夜中に車に乗せて30分ほどドライブに連れて行ってあげる。

車の中の心地良い揺れで眠りだします。

「やっと、寝たわ!」、そう思い、家の前に車を止めると、そのとたんに起きてしまい、又も泣き出してしまう始末。

「あ~あ、又起きてしもたわ、もう1回ドライブにいくわ」

大学に行っても就職先が無いということで、途中で就職活動を諦めてしまい、大学卒業後、4年生の医療専門学校に通います

そんな娘もいつの間にやら28歳になり嫁に行ってしまいました。

娘の結婚式で私は、始終ずっと泣いたままでした。

喋っても、全く声になりません。

だって、「こんなオカマみたいな私」に子供なんて出来ると想像も出来なかったのですから。

結婚式も終わり、大阪に帰ってきても、今まで同様に夫婦の会話と言うものはありません、

というより、妻は日中、お店でなじみのお客さん達とキャっキャと騒いでいるのでお店が終わってからまで、気分の悪くなる私と話をする気になんてとうていありません。

妻の仕事が終わってからの唯一の楽しみは、夕食時にテレビを見ること。

そんな妻が可愛そうで、当時としては値段も高かった、42型のフルスペックの液晶テレビと地デジレコーダーを買って来て取り付けてあげます。

「たとえ一時でも、嫌な気分を忘れられるかな?」と

私の方は、自分の部屋でパソコンに入れてあるテレビチューナで楽しみます。

そんな事が繰り返される毎日

でも、私は、決して妻を恨んだ事は1度もありません。

それは、ずべて私が蒔いた種で、私に責任があるのだから!

途中で男としての責任を放棄してしまった。

妻から何を言われても、言い返す言葉がありません。

それよりも、今まで30年間も、私の為に尽くしてくれた妻の愛情を裏切った事に懺悔の気もちでいっぱいです。

でも・・・

これ以上、自分を偽って生きて行くなんて私には、到底無理なんです!

妻は、私に言ってくれます。

「それやったら、家の中だけで女の恰好をしていたらいいのと違う?」

「外では、男として以前のように近所付き合いをしたらいいいと思うけど・・・」

そうは言っても、やはり容姿が変わっているし、何よりも話方が女性らしくなっています。

言葉使いやイントネーションにアクセント

今や、男として世間とのお付き合いなんて到底無理な状態です。


◎ 家出決行



娘が嫁に行って2ヶ月ほど経過した頃、又も妻と大喧嘩

私は、嗚咽のような泣き声で1時間ほど神経が高ぶっています。

こんな状態では妻も錯乱してしまう!

そう思いしばらくの間、家を出を事にします。

行き先は不明

カバンに数日分の服や下着を入れて家をでて駅までの30分ほど。近所の方にはわからないように帽子を深く被り顔を見られないように下を向いて歩いていきます。

実はこの時・・・・「自殺」を考えていたのです!

この時、私の脳裏に浮かんだのは、私の父が長男として生まれた私を他の兄弟より特に大事にしてくださり、何処へ行くにも私を連れて行ってくれた事。

父が連れて下さった記憶を頼りにその場所に行きます。

一番よく連れてくださったのは、新世界の「てっちり」のお店

今から50年ほど前には、「てっちり」なんて肝臓にある「テトロトトキシン」という猛毒で死亡した方が多かったので一般的に食べる方が非常に少なかったのです。

その時なんて、「てっさ」も付いて、1人前が130円。雑炊が30円で父がビールを飲んでも今で言う、「ワンコイン」で済むくらい。

いつも行く「串かつ」のお店に入り、子供の時に食べたあの味を思い出しながら、目から涙を溢れそうなのを必死で抑えて下を向いて食べています。

今でこそ、新世界の治安もましになりましたが、昔なんて、浮浪者(御免なさい)のような恰好をした酔っ払いが、新世界を歩いている女性にわざとぶつかってくるのが日常茶飯事の出来事。

女性同士がこの新世界を訪れるなんて、狼のいるところに羊が行くようなものです。

今では、家族連れや女性同士、そしてアベックの方(めちゃ古る~)が沢山来られています。

「ジャンジャン街」や「叩き売り」のお店を覗いたりたりして、この日は近くにあるお泊りのできるレジャー・銭湯に泊まります。

翌朝は、歩いて天王寺へ行きます。

天王寺には、私が若い頃にアマチュア無線をしているクラブの友人が経営しているお店があるのです。

モーニングでも食べようかと思ってお店に入ります。

彼はすでに還暦を過ぎています。

父の後を継いで今は社長として何件のもお店を取り仕切っています。

「阿倍野再開発事業」の役員さんもいていて毎日が忙しい日々

お店に入り、「社長、いてはりますか?」と尋ねると、事務所にいるとの事ですぐに呼んでくれます。

彼は結婚式場も経営していて、若い頃には、無線仲間と結婚式場の送迎バスでスキーに何度も行ったりしていました、

途中で雪の為にタイヤが滑って動けなくなって、みんなでバスを後ろから押したりして・・・

そんな楽しい思い出がいっぱいだった無線仲間との出来事

社長が店に入って来て回りを覗いています。

でも判らないみたい

私が、「○○さん!」と呼ぶと、不思議な顔をして近づいてきます。

「△×○さん?」と私の無縁のコールサインを呼びます。

こんな私でも、一応アマチュア無線としては一番上の免許を取得していて、無線の講習会の講師の資格も持っています。

また、仕事の関係で業務用の無線資格も取得しているので、無線クラブでも一応、一目置かれていました。

当然彼は、私を見て驚きます。

そりゃあびっくりするでしょう!

あれから10年近くお会いしていません。

「こないだ、還暦を迎えてん!、髪の毛も真っ白になってしもて・・・」

私が彼と始めてお会いしたのは、まだ彼が30台の頃

髪の毛も真っ黒で、背も高く、ロサンゼルスに10年ほどいて、日本に帰って来て専務として親の手伝いをしていた頃。

そんな彼も、今やりっぱなお爺ちゃん、30年の月日の早いのとその変化に驚いてしまいます。

それよりも、私のこの変化には彼の方が驚いているはず!

「どうしたん、その恰好!ニューハーフにでもなったん?」と驚きます。

当然彼は、私の妻の事を知っています。

結婚式の披露宴にも参加してもらっていますから。

それに、彼の家は私が以前住んでいた家のほん近所。

仕事で遅くなって、阿倍野で友人達と飲んでいるときでも帰りに家までよく送ってもらっていました。

「奥さん、何も言わへん?」と尋ねてきます。

「そりゃあ、家の中、ガタガタやわ!、実は、今、家出してんねん・・・」と

彼、「そりゃあそうやわなあ、そんな容姿やったら近所もあるかれへんもんなあ~」と

「社長とこのマンション、空いてたら、安く入れてくれへん?」と尋ねると

「今は、マンションも全然もうからんから、潰して、駐車場にしてんねん!」

やっぱり、どこも不景気で苦しい状況。


ところでここのお店には「自衛隊出身」の従業員で長年知っている方が勤めていたのですが、その方の姿が見えないので、

「あれ~、○○君はどうしたん?」と尋ねると・・・

「彼な、ニューハーフになってお店辞めて、別のお店に行ったんやねん!」と

彼にとっては、信頼していた従業員が期待を裏切ってニューハーフになり、まして長年の友人だった私も同じような状態になっている現実に戸惑いを感じているはず。

「また、いつでも遊びに来てな」と言って、いつものように会計の伝票に社長のサインをして下さり、お金を払わずにお店を出ます。

「とりあえずは、社長にも会う事が出来たし・・・」と、今度は「ナンバ」まで地下鉄に乗っていきます。

大阪の繁華街と言えば、梅田、とりわけ新地、そしてナンバ、新世界とあるのですが、食事や遊ぶにしてもやはり新地で遊ぶのが一番高くつきます。

私が子供の頃なんて、父がお給料をもらった時とか、思わぬ収入があったときなんて家族そろって梅田に出てお食事、若しくは、ナンバに出て買い物や食事、そして月末の給料日前になると新世界にでて、動物園で遊んでその後安いお店でお食事というのが一般的な庶民の生活状況でした。

ちなみに、当時の串かつなんて、3本で20円くらいです。

今は、1本100円、物価にすれは、20倍になっています。

瓶ビールの大(633ml)が130円くらいだったと思います。

そんな新世界を後にして難波へ向かいます。

難波といえば、私が中学生の頃に自転車で心斎橋や道頓堀を走り回ったところ。

難波のはずれにあるラブホテルやビジネスホテルなんかも、同級生の親が経営しています。

友達の家に遊びに行くのにと行ったところが何と、「ラブホテル」

中学生がこんなところに入って行くなんて昔の事だから考えられません。

勇気を出して表の入り口から入ろうとしたら裏口から、友達が、「そこ、違う!」と裏口から声を掛けてくれます。

そんな思い出のある難波の繁華街

この難波ではまだ父が独身でいた時に住み込みで働いていたお店がありました。

それは、戦争が終わった昭和22~3年の頃

そんなお店も今は別の店になっています。

その日1日、カラオケを歌ったり、映画を見たりと残された命を存分に楽しんでいます。

今日は、ネット・カフェというところで泊まる予定をしていました。

事前にネットで調べていた難波にある「キャッツ」というお店

初めて泊まるネット・カフェ、一度くらい経験しておきたいと思って、その場所に行ってみると?

そこには、警察管や報道陣が脚立を立てて大変な状態、

お店には、例のブルーシートが掛けられて、道路には縄が張られています。

実はこのお店、昨日お客さんが放火をして沢山の方が亡くなられたとの事。

大阪・難波の個室ビデオ店放火2008年10月1日午前2時55分ごろ、大阪市浪速区の雑居ビル1階の個室ビデオ店「試写室キャッツなんば店」から出火、約37平方メートルを焼失し午前8時18分ごろ鎮火。男性客15人が一酸化炭素中毒や気道熱傷などで死亡、上層階の住民らを含む10人(男性9人、女性1人)が病院に搬送された。大阪府警浪速署捜査本部は1日、火元の個室を使用していた46歳男(無職)を殺人、殺人未遂、現住建造物等放火の容疑で逮捕した。
同年10月14日、意識不明で入院中の男性が死亡し事件の犠牲者は16人になった。

もし、私が昨日、泊まっていれば、この犠牲者の一人に入っていたかも?

でも、とっても不思議な気持ちです。

ここに泊まっていれば、もうこれ以上家族を悲しませる事もなく、当初の目的である自殺という形ではなく、人に惜しまれて亡くなっていけうかも・・・

そんな気持ちが脳裏に横切り、とても不思議な気分。

不幸にも亡くなられた方々に黙祷をささげて、その場を去り、別のネットカフェに行きます。

夜のフリータイムは夜の11時からです。

それまでの間、道頓堀をまたもやうろついて、ツタヤの1階にある本屋で時間をつぶしたりして、ネットカフェに入ります。

初めての経験です。

小さく分けられた部屋は一人横になれるかどうかのような広さ

入り口は、中が隠れるぐらいの小さな扉があるだけ。

入って驚いたのが、なんと沢山の方が利用されているのかと。

中にはシャワー設備はあるが、予約制で20分で100円との事。

私は、その日の疲れもあり、部屋に入るなりそのまま寝てしまい・・・

翌朝の5時には、そこを出なければなりません。

早朝の道頓堀の空気は、何とすがすがしい気分なのでしょうか。

道頓堀の川沿いを30分ほど歩きます。

昔はこの道頓堀沿いに沢山のお店がありました。

牡蠣船がついて、その場で牡蠣のてんぷらを揚げてくれるお店とか。

そんなお店もなくなっていまって子供の頃の面影なんて一つも残っていません。

今でも唯一残っているというのはあの、「グリコ」のネオンサイン

image[6]

確か昔はこの横に、南海電車や阪急電車の宣伝もあったような気がするんですけど?

今日は、何処へ行こうかと悩んだ末に、高校・大学時代に仲の良かった彼氏?と一緒に二人でドライブに行った京都に行きます。

京都は、大学の教育実習の時にも、実習先の受け持ちの高校生を連れて、銀閣寺や哲学の道を歩いた思い出があります。

あの時は、本当に教員になって、子供達に夢を与えたいと思っていたのに・・・

そんな夢も破れて、しがないサラリーマンを続ける事になった私

京都駅まで行き、取り合えす京都を周遊するバスに乗り、京都の名所を回ります。

一緒にいた中年の男性が、個人負担で入場するお寺に、「一緒に入りませんか?」と言ってくださり、入場料を出してもらえてとってもラッキーと思ったり。

「清水の舞台から飛び降りた気持ちで」と言われる清水寺では、下を覗くと怖くて足が震えてしまいます。

だって、私、「高所恐怖症」なんだもん。

「飛び降り自殺」なんて絶対に無理です。

観光も済まし一路、大阪に戻ります。

大阪に到着して頭に横切ったのは、私の実の弟の事

「弟の顔も、もう一度見ておきたいな!」

そう思い、弟に電話を入れます。

「今から、行くわ!」そういって電話を切ります。

この頃には既に心臓が悪く、少し歩くと動悸がしてしまいます。

駅から10分ほどで着くにも係わらず、重い荷物を持っていることもあり1時間以上もかけてやっと家に到着します。

途中で、私が辛そうに歩いている姿を見た自転車に乗っている二十歳くらいの女性が通り過ぎた後、又戻って来れれ

「大丈夫ですか?とてもしんどそうですが!、何でしたら、荷物を自転車に積んであげますし、一緒に行きましょうか!」と

なんと優しいのでしょうか、生きている事で、この人の温かさに喜びを感じるのでした。

彼女の言葉を有難く感じながら、「あと少しで着きますので、いけますから大丈夫ですよ。本当に気を遣って下さりありがとうございます」と丁寧にお礼を言いました。

「今日の若いもんは!」というけど、世の中、捨てたもんじゃあありませんよ!

何度か実家で弟夫婦には会っているのでが、私が女性ホルモンを始めてからは、合う機会も少なくなりました。

家のインターホーンを押すと、「ハーイ」と義理の妹が返事をします。

「私です~」と言って家の中に入っていきます。

義理の妹は、私を見て、「お兄~・・・・」といいながら途中で言葉が詰まってしまいます。

家の奥に行き、テーブルで弟と義理の妹の前に私が座ります。

義理の妹が私に声をかけてきます。

「お兄さん、いったいどうしたんですか?」

「家に入ってきたとき、女の人が来たと思いましたよ」と。

「前から気になっていたんですけど、実家でお会いした時も、痩せてしまってまるで人相が変わったみたいになっていて心配していたんです!」

二人の前で、今までの事を一部始終説明します。

義理の妹は、中学の保健主事をしています。

受け持ちの生徒の中に、いわゆる、「性同一性障害」と言われる、FTMの生徒がいるそうで、制服である、「セーラー服」で登校するのが嫌で、毎日ジャージで登校しているとの事。

「お兄さんにそんな病気があったなんて全然思いもよりませんでしたわ!」と驚きます。

弟は、私が小学校の時ぐらいから、母親の服を着たり、お化粧をしたりしているのを見ているのでうすうす感じていた見たいで特に驚く事はありませんでした。

弟は、「気分を紛らわすのに、ドライブにでも行こうか?」と私の気持ちを察してくれます。

ガレージには、30人乗りのマイクロバスを改造したトヨタのコースターのキャンピングカーがあります。

弟の趣味は、トライアスロン、現地に行くのにホテルに泊まっていると高くつくので、これを作ったとの事。

「燃料も少ないからこれで行こうか」と途中で燃料を入れて、大阪湾の海辺まで走ります。

大型バスの助手席がら見る町並みは、普通車のような風景とは全く違う印象です。

私には2人の弟がいます。

その中でも、私のすぐ下のこの弟と一番仲が良かったのです。

両親が外出したり、母が病気になったりするといつも私が弟達の為にご飯を炊いて、市場に買い物に行っておかずを作って食べさせてあげていました。

海辺に着いて、夕方の暗くなった堤防に二人で方を並べて座ります。

ところが、何か不思議な気持ちなんです!

実の弟なのに、並んで一緒に座っていると弟とは思えなくて、「男性」として思ってしまうのですよ。

「私って、おかしいのかな?」って

「こんな時間が長く続いて欲しい・・・」と思ったり。


弟は、静かにゆっくりと私に言います。

「兄貴がそう思っているのだったら、自分の思っている生き方をしたらええのんと違う?」

「どっち道、遅かれ早かれ、そういう結果になると思うし・・・」

「いつまでも、ダラダラと中途半端な生活をしている方がお互いに辛いのと違うかな?」

そんな、兄弟二人で夕闇の防波堤の上でこれから先、2度と話すことの無いような会話を1時間ほどしていました。

寒くなって来たので、一度家に戻り、弟の家族を連れて、お寿司を食べに行きます。

帰って来てから、義理の妹は、私に「お兄~」といい掛けて、「お姉さん」と言い直しで、こちらにお布団を引いておきますので今日は、ゆっくりとお休みくださいね!と気を遣ってくれます。

本当は、この家出で今までの事をきちんと整理して自殺をしようと思っていました。

それが、残された家族の為に一番言い方法だと信じて。

あと数日、いろんな場所に行って、今までの思い出をたどって行きたかった。

でも、「もういいやあ」と

「これ以上、悪あがきなんてすることないし・・・」


お昼頃まで、弟の家でお世話になり、夕方に近くの駅まで送ってもらいます。

その足で電車に乗り駅に着いて、ゆっくりと家に帰ります。

ちょうど家の前に着くと、妻が店の前に立っており、「お帰りなさい」と。

私は、「ただいま」と言って、すぐさま家の玄関を開けて中に入って自分の部屋に閉じこもります、

既に私の気持ちは決まっていた。

やっぱり離婚するしかない。

これ以上、一緒にいることは、家族に多大な迷惑をかけてしまう。

これから結婚を控えている息子の事。

嫁には行ったけれど、私が原因で離婚に繋がることになれば娘になんと詫びれば良いのか。

妻にしても、私がいないことで、「いわゆる陽気な未亡人」として気楽な生活を送れる」

これ以上、私の事で家族に負担を掛けられない。



妻が店を終え、2階に上がってきたのを見計らって、声を掛けます。

「ちょっと、話があるんやけど?」

その後、「やっぱり、離婚しよう・・・」

それを聞いた妻は

「うん・・・」と一言うなずいたままでした。

離婚なんて本当に簡単な手続き

30年の二人の生活ってなんだったのだろうというくらいに全てを無にしていまいます。

離婚に当たって全ての私名義の資産を妻と子供の名義に変更しました。

家は、銀行の抵当に入っていた金額を全額返済して妻の名義に変更

2台あった車は、妻と息子の名義に変更

店の経営者の名義も妻に変更

厚生年金も半額は妻に支給されるように申請をして

特に家屋の名義変更は、府税である土地・家屋取得税が課かってくるので事前に府税事務所に行き、係長さんに事情を説明して1円の税金もかからぬように確約をとって。

家屋の名義時変更についても、国税に関係いてくるので、贈与で行くか慰謝料で行くかなどと、これも事前に税務署の担当者と相談をして1円の税金もかからぬように処理してもらいました。

あと数年で妻には、私の年金の半分が支給されます。

少しでも生活が楽になるはず。

全ての名義を妻に変更して10月の半ばには、役所に離婚届を提出します。

「なんて、あっけないんだろう!」

「30年間のあの楽しい事や辛い事はいったいなんだったろう?」

結婚や離婚は、「たった紙切れ1枚の事」と言われるけれど、その言葉がしみじみと伝わってきます。

息子の籍も妻の席に入れました。

もう、妻とはなんの関係もない他人同士

離婚の際には、結婚する前の「旧姓」に戻す事ができます。

「どうするの?」と尋ねると

「私は、○○(私の姓)に嫁にきてん、姓は変えるつもりは在りません!」と言ってくれます。

私は、自分の部屋を整理して最低必要な物だけを持って家を出て行きます。

30年の結婚生活は、こんなにも簡単に終わってしまいまいました。

あれから。3度目のお正月が過ぎました。

その間、一度も、元妻や子供達と話をしたり、遭ったことがありません。

それでも、妻と子供達にとっては、私の祖父は今までどおりに、良き「おじいちゃん」と「おばあちゃん」

年に何度か私の実家を訪れて下さり、判れてからの3度のお正月も毎回挨拶に行ってくださっているとの事。

今年のお正月には、弟の孫が来られていて、元妻に、「おばあちゃん、おばあちゃん」と懐いてしまい、元妻のとっても喜んでいたようです。

先日、母が来られた時に、妻の事を尋ねると、「○○ちゃん。すごく元気で顔もふっくらとしていたよ!」と

妻が元気でしていると正直、ほっとします。

彼女や子供達には、とんでもない不幸を背をわしてしまいました。

でもそれを悔やんでも仕方がないことと納得させようとおもっています。

ただ、これ以上、彼女達に私の為に不幸にならないようにと・・・

これからは、お互いに別々の道を歩んで行きます。

彼女には彼女の新しい道を歩んで欲しいし・・・

私も、自分が決めた道が正しかったと別れた妻や子供達に胸を張っていえるようになって・・・

そして、にっこりと笑って再開したい

きっと、いつの日にか

そんな日が、早く来て欲しいと願って・・・

それまで、もっと自分に強くならなければね!

そう決心して、このブログを書く決心をしました。

私と同じように悩む方に少しでも未来に希望が持てるようにと!

そして初めてのブログが ↓ でした。

性別適合手術を受ける決意をしました!


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既婚者の性同一性障害の治療について:破局の前触れ

こんにちわ~、のんびりのん子です!

昨日、今年初めてのカラオケに行ってきました。

半額サービスの日だったので、通常30分100円が50円

2時間でお願いしたんだけど終わり頃に30分延長してもらって結局は2時間30分

アルコールを2杯、アイスコーヒーを1杯飲んで、支払いは250円です。

これじゃあ、喫茶店に入るよりずっと安いんじゃないですか!

いつも一人で歌いぱなしですから30曲以上歌っています。



こんだけ歌うと日ごろのストレスなんて(こんなのんびりした私にストレスなんてあるの?と言われそう・・・)吹っ飛んじゃいます。

というより、もう疲れきっていますけど・・・

と、ここまではウキウキ気分なのですが、前回のブログの続きになると、途端に重苦しくなってしまいます。

前回のブログはここ「既婚者の性同一性障害の治療について:岡大での診察の事」

ある時、妻は私にポツリと言いました。

「女性ホルモンって本当に怖いねぇ~」

ここまで女性ホルモンで人間を変えてしまうなんて想像もしなかった妻の嘆き。

それまでにも、妻から何度と無くホルモンを止めて欲しいと泣かれます。

そして、私も「ここまで妻を悲しませるくらいならホルモンを止めてしまおう」と飲まなくします。

でも、1ヶ月ほどすると、自分自身が何故かすごく虚しくなってしまうのです。

「また、元の中年のしがないおっちゃんに戻ってしまう!」

「もう、私の人生は終わってしまった」そんな自爆的な気持ちになってしまい・・・

私にとっては、すでに女性ホルモンはある意味、「精神安定剤」になってしまっているのでした。

そんな事の繰り返しで気持ちの起伏が激しくなる一方。

その時にも、役所から離婚届をもらって来ていつでも提出できるように用意してあったのですが・・・

ところで、この「離婚届」の用紙

窓口には、色んな届け出の用紙が並べてあるのですが、「離婚届」は何故か置いてないんですね!

この用紙は、窓口の係員の方に口頭で言ってもらわないといけないみたいです。

周りに沢山の人がいるのに・・・・

「すみません!離婚届けの用紙を頂けますか?」と

周りの人、「うわぁ、あの人、離婚するんやわ~、可愛そう!」

「やっぱり、ご主人の浮気かな?」とか

「ご主人に女が出来たんやろうな!」なんてきっと想像しているはず。

でも、本当は、ご主人に女が出来たんじゃなく、ご主人が女になったから離婚するなんて想像もつかないでしょうね!

それでも、冷却期間をおけば少しでも妻の気持ちが和らぐと思い、勤務先の看護婦寮に住まわせて頂きます。

かつて一人暮らしをした事がなかった私

まるで、生まれたからずっと鳥かごに入れられていた小鳥が鳥かごから出されたような気分

自由を取り戻したような気分です。

誰からも束縛されない生活、悪く言えばやりたい放題(って、エッチの事じゃあないよ)

この時期が本当のRLEというか、フルタイムで女として必死で生活をしていた時期です。

でも、こんな楽しい生活も長くは続きませんでした。

半年ほどすると妻から連絡が入り、「そろそろ帰っておいで!」と

仕方なく妻の元へ帰ったのですが、私の女性化願望は以前より増して強くなっています。

その年の末には、美容外科で豊胸の手術を受けます。

これも、妻には内緒の事。

私は全て妻に内緒で突き進んできました。

お正月も術後の痛みでベッドから起きられない状態

豊胸手術をしたことを黙っていても、見ればすぐにわかります。

妻はあきれてしまい言葉もでません。

私の父からも、「乳まで大きくして何考えているんや!」とあきれる始末。


ちょっと余談になるのですが、豊胸手術で胸にインプラント(シリコンバック)を挿入するのですがこれがとっても冷たいのです。

体温は36度前後ですが、胸に入れたシリコンバックがすぐに体温と同じような温度にならないのです。

特に冬場は冷たくて仕方がありません。

お風呂に入って胸を暖めても、一向に温もらないのです。

胸を触ると、とっても冷たい!

体温とほぼ同じくらいになるまでは、3ヶ月から半年くらいかかるみたいです。

今でこそ、自分のオッパイを触ると、全体が体温で温もりがありますがあの時は本当に冷たかったです。

冬場に豊胸手術を考えている方は、その辺、ご注意くださいね!


豊胸手術までしてしまった私

相変わらず妻との口論は尽きません。

私がお風呂から上がり裸で出てくると

「そんな乳出して出てこんといて、ちょっとは隠しや、見とうもないわ!」と妻にいつも言われる始末

妻の胸も結構大きかったのですが、それにもまして私の胸の方が大きいのでブラジャーも妻より大きいサイズ。

妻が洗濯物を畳んでいても、自分のショーツより私のショーツの方がずっと可愛いしブラジャーも大きいサイズ。

「私は、あんたの何なん?」そういう気持ちが募ってくるのは当然の事。


今から思うと、女性ホルモンを始めた時に想像していた事がとても甘かったと反省しています。

確かに、「残された人生、自分らしく生きて生きたい」と願ったのは当然なのですが・・・

妻が自宅で飲食店をしているので、私が定年で仕事を辞めても、私が女になって、妻と姉妹のような関係で仲良く一緒にお店をしたいと考えていたのです。

でも妻にすれば、「この家に女は二人も要らん!」と断固として拒絶します。

それからと言うもの、何か口を出すと口論になってしまうので、私は家の中に閉じこもったままで一歩も部屋を出ることなく妻との会話も一切ありません。

食事もろくに摂らない状態なので体重も55キロを割り頬はこけてしまいまるで栄養失調の状態です。

女らしさのあのふくよかな顔ではなくまるで骸骨のような顔立ち。

その時に、なにか気持ちをまぎらわずのにと、ロックミシンとミシンを購入して毎日洋服を縫っていたのでした。

そんな生活が2年ほど続いたある日、妻が私に言ってきます。

「娘が結婚するので先方の親御さんが顔見世で大阪に来られるそうやねん!」

本来なら娘の結婚の話なんて、私の方にも事前に相談があるのが常識

でも、そんな事、私が言う資格なんて毛頭ないと思っています。

私の自宅まで来ていただくにも大変なので、関空にある日航ホテルの38階でお会いします。

娘の嫁入りなんてあっと言うまです。

5月に結納に来られます。

先方の親御さんは東京都内で多くのマンションを持っている本家の地主さん。

驚くような結納金を持って来られて、これに見合う嫁入り仕度に迷ってしまうほど。

忘れもしない7月28日、ついに娘が嫁に行きます。

東京都内のある有名なホテルで結婚式を挙げます。

0934.jpg
(髪の毛も短く切って、胸もナベシャツのような下着で胸を目立たなくしています)

結婚式の総額は何と、1000万円近く、それも全額先方が負担さして欲しいとの事。

ホテルからは挙式のプレゼントとして、当日の宿泊としてスイート・ルームの宿泊券と国内旅行を頂いたそうです。

私達が泊まった部屋もすごく立派だったのですが、1泊30万円以上もするスイート・ルームって驚いて声もでません。

これも余談なのですが、このスイート・ルーム、

政府や外国の要人が泊まったりすることがあるので警護の為、窓ガラスには防弾ガラス、床にも爆弾などに耐えるような仕様になっているそうです。

こんな私でも世間では一応、父親、なんとか娘が嫁に行くと今まで圧し掛かっていた肩の荷がおります。

そう、娘が結婚するまでは、なんとか父親としての役目を果たしたかった。

それだけが一途の望みでなんとかここまでやってこれたのです。

「結婚式には、新婦の父として出席したい」

「娘の花嫁姿を見ておきたい」

ただそれだけを楽しみにしていました。

娘のこの結婚までには私には知らなかった大変な事実があったのです。

実はこの結婚の前に交際していた彼氏がいたそうです。

私も何度かお会いした事があります。

娘が大学に通っていた18歳の時に知り合った男性

その時彼は、東京理科大学の学生

交際期間は26歳までの8年間で結婚の約束もしていたそうです。

彼は、大学卒業の後、大学院への進学を筑波大学にするか迷っていたそうですが結局は娘の近くの大学に決めます。

奈良先端科学技術大学院大学という、よくテレビでロボットの開発で紹介される学校

彼は宇宙工学を専攻していて卒業後は種子島の宇宙開発センターで働きたいとの事。

娘も沖縄の病院で視能訓練士で働くつもりだったらしい。

ところが、彼の 母親が急死し、学校を辞めてしまいます。

大学の時は企業からの研究費が毎月30万円ほどあるので大学院での研究や生活も続けていけますが、止めてしまうとすぐに働かなくてはなりません。

彼の実家は静岡県でメロンを作る農家の長男

彼は、実家の静岡と娘の住む大阪の中間に当たる名古屋で就職先を見つけそこで住みます。

名古屋と大阪の交際が続き、娘も専門学校を卒業すると彼の後を追って、名古屋の病院に就職を決め彼の近くのマンションに引越しします。

妻からは娘が名古屋に引っ越す事すら知らされていませんでした。

まあ、私が口を挟むような事ではないし・・・

彼氏の実家には何度となく行き来していて、彼氏の父や兄弟も結婚の話に賛成していたそう。

ところが???

彼氏には、私が性同一性障害であると言う事を知らせていたそうです。

それでも彼はその事を承知して結婚の約束をしていたとの事。

ある時、彼氏が実の姉にその事を話すと、姉は猛烈に結婚に反対します。

それが原因で本人達の意思とは関係なく、8年間続いた交際も終わってしまいました。

まぎれもなく、私が原因です。

この話も今の彼氏と結婚が決まって初めて娘から聞いた事実。

無事結婚式も済ませ、彼氏の実家のご両親にはとても大事にしてもらっています。

でも、わたしのこの「性同一性障害」の事を娘が彼氏やご両親・兄弟に言っているのかどうか?

もし、知らなくてその事実を知った時の事を想像すると娘には申し訳なくて仕方がありません。

そう考えると、娘の父親として存在している事に罪悪感が日増しに強くなっていくのでした。

つづきは、「既婚者の性同一性障害の治療について:破局への道」で


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既婚者の性同一性障害の治療について:岡大での診察の事

こんばんわ~、のんびりのん子です!

実は今回のテーマを書いていて少し躊躇していたのです。

と言うのも、あまりにも赤裸々な私のたどった道。

それでも、私と同じように悩み苦しんでいる方達の決断に少しでも役に立てればと思い、筆を執る事にしました。

私が岡山大学付属病院に通院したのですが、診察の順序としては非常に珍しいケースでした。

本来は、精神科・神経科の診察をまず受けてその後、泌尿器科、産婦人科というのが標準的なGIDの治療過程だそうです。

ところが、私の場合、勤務先の産婦人科の女医さんが、日本性医学学会の会員であった事もあり、同じ学会の知り合いである、岡山大学病院の泌尿器科の永井教授に電話を入れてくださり、「すぐに診察に来てください」と女医さんに紹介状を書いていただき、2日後には妻と一緒に診察に行きます。

今なら考えられない話です。

診察台に乗り、いきなり先生にお尻の穴に指を突っ込まれます。

「前立腺は既に無い状態ですね!」と。

その後、睾丸の大きさ(容量)を調べるために、バスタの量を測るような穴の開いた板に睾丸を入れて大きさを測ります。

抗男性ホルモンと女性ホルモンの服用のため、既に睾丸も3分の1くらいの大きさになっているとの事です。

すぐさま血液検査を行います。

ちなみに、その時の検査値は、

PRL(プロラクチン) 36.67ng/ml
テストステロン   <0.1ng/ml
エストラジオール  270pg/ml
Fテストステロン  <0.6ng/ml

女性ホルモンを服用し出してたった4ヶ月で既に去勢状態だそうでした。

その後、産婦人科へ行き、中塚先生の診察を受けます。

中塚先生と言えば、今や性同一性障害においての研究で第一人者の方。

中塚先生との出会いが今の私を救って頂いたと心から感謝しています。

その後、本来ならばGIDの治療の順序としては一番最初に診察を受ける精神科・神経科であるにも係わらずこの診療科が一番最後になってしまいました。

診察を受けた医師は、当時、精神科・神経科の絶対的な権力を持っていた黒田教授。

そりゃあ、黒田教授にすれば気分が悪いでしょう!

本来ならば、自分が一番初めに診察をしないといけないのに、一番最後。

先生にすれば、侮辱されたような気分にで私に対する言葉遣いもすごく無愛想です。

そして言った言葉が・・・

「GIDの認定は、私が決定権を持っている」

「私が、駄目と言えば認定されないのだから!」と!

突然のこの言葉に、私は言葉が出ません。

こんな独裁者のような先生に診察なんて受けたくもありません。

診察が終わった後で次回の診察予約を看護婦さんと相談するのですが、「私、黒田教授とは気が合いません。別の先生の診察に変更していただけますか?」

そうお願いすると、「それじゃあ、佐藤先生の診察時間にしましょうね!」と担当医師を変更して頂けました。

この佐藤先生も性同一性障害の治療に関しては知る人ぞ知る第一人者。

午後3時の予約なのに私の順番が来たのが夜の8時なんて毎度の事。

一人の患者様に対して1時間くらいカウンセリングをしたりとすごく丁寧な先生。

大阪から岡山までの通院は、本当に辛いです。

新大阪から新幹線に乗り、岡山まで行きそこからバスで15分ほど。

当然、精神科・神経科の佐藤先生の診察日と産婦人科の中塚先生の診察日が異なっています。

でも、大阪から来ていて何度も診察に来るのが大変だと、お互いの先生が連絡を取り合い、診察日でなくても、研究室や病棟勤務から外来に下りて来て下さったのです。

毎回、1度の通院で精神科・神経科の診察と産婦人科の診察を受けることが出来ました。

今だと、こんな便宜なんてあまりにも受診患者様が多くて対応できないでしょね!

なんて、私ってラッキーなんだと感謝しております。


初診から1年を経過した6月の診察での事。

佐藤先生が、「改名をするには、診断書が必要でしょう!」と言って下さり、「性同一性障害で現在通院中である」との診断書を書いて下さります。

本来ならば、自分が性同一性障害という精神障害を持っていることに悲しみを感じなくてはならないのに・・・

でも、心の中は、これで長年の思いであった女性に1歩近づいたと大喜びです。

すぐさま、裁判所に改名の申請を行います。

申請をして2週間ほどで審判があり、即日許可がおります。

改名は、届け出の期間の定めがなく、何十年後でも、都合の良い時に申請すればいいとの事。

確かに子供が居られて、結婚される時に双方の戸籍謄本を取った時に、父親の名前が女性名になっていたりすると先方のご両親が不思議に思う事があります。

各言う私も、娘が結婚する時に、先方のご両親から、「お父様の名前が変わっていますが何かあったのですか?」と尋ねてきます。

ましてや、その名前が「女性名」

不思議に思って当然です。

あの時は、口からでまかせで、「子供の頃から、この名前で呼ばれていたので裁判所で変更してもらったのです」と何とか言い訳をした次第でした。

もうほんと、冷や汗もの

この時、私の戸籍が女性に変更されていれば、どういう言い訳をすればいいのか・・・・


診断書を頂いたものの、しばらくは改名について悩んでいました。

半年ほど悩んだ末、改めて、これからの人生、女性として生きて行く決心をします。

「もう隠し事はしない!」と

改名も済まし、二人の子供達にカミングアウトをします。

この時、娘が23歳、息子が21歳

娘は、視能訓練士、息子は介護福祉士の専門学校に通っていました。

1年間の学費は、二人で400万円

娘は4年間、息子は3年間通わないといけません。

二人が卒業するまでに必要な学費はなんと、1400万円

サラリーマンがこれだけの学費を払うなんて大変な事

二人の子供達に私の事を打ち明けます。



娘は、涙を流して黙って私の話を聴いています。

息子も、「僕かって、医療系の学校に通っているねん!、障害者の事やそんな障害の事、きちんと理解しているつもりや」

二人は30分ほど無口で涙を流したままでした。

翌年の私の誕生日に、娘からプレゼントを頂きました。

包みを開けると、手紙と可愛いペンダントが入っていました。

「お父さん、いつもありがとう、いつまでも元気でいてね!」

「お父さんに似合うかな?と思ってペンダントを買いました、気に入ったら付けて頂戴ね!」と

それを見た妻、「あの子、何考えてんのん!」とあきれ返っています。

女性ホルモンを始めて1年半、改名も済まし、勤務先に診断書を見せて、女性職員として働きたい事を申し出ます。

即日承諾され、翌日から女性職員の服装である、白のブラウスとスカートにベストを支給されます。

職場では、女性事務員さんや看護師さんから「良かったね!」とお祝いの言葉を頂いたり

でも、男性職員にとっては、納得がいかないような雰囲気

今まで男性として接していた人がいきなり女性に???

どう接すれば良いのかと迷うのは当たり前のことです。

この頃からお化粧や女性用の服装を着るのが当たり前のようになってきます。

しかし、私が住んでいるところは、新興住宅地

女性の恰好で近所をうろつくなんてもってのほかです。

ここへは、昭和63年に家を建てました。

妻は、栄養士で私と同じく調理師の免許を持っています。

とても料理が好きなので、自宅で飲食業をしたいとの事。

それで、1階の一部分をお店にします。

お店には、近所の奥さんや家族連れで沢山のお客さんが来られます。

そんな環境の中で私の女装姿をさらすなんて自爆もの。

仕事に行くにも、お化粧をして女性物の服を着るのですが、お店の中をくぐり抜け、裏になる倉庫のバイクにまたがり、ヘルメットを被って、こそっと、シャッターを開けて駅まで行きます。

駅のバイク置き場でヘルメットを脱いで、女性の恰好で電車に乗ります。

帰りも、お店が終わってお客様が居られない時間を見計らって、裏の倉庫のシャッターを開けて、お店を抜けて家に入ります。

そう言った生活が続く毎日ですが、女性ホルモンも2年ほど経過すると、こんな歳を行った「おっちゃん」でも明らかに容姿が女性らしく変化してきます。

5年前tanigutib.jpg
並べて見ると、確かに少し優しい感じになっています。(緊張のあまりにちょっと引きつっていますけど・・・)

家では男物の服装をしているのですが、やはり顔つきやしぐさが男らしくない。

お客さんから色んな事を店をしている妻に言ってきます。

「うちの旦那が言ってたんやけど、ご主人にそっくりの女の人がパチンコをしていた!」とか

「ママの旦那、最近、女の人見たいになって来たね」

初めは、ちょっと冷やかしのような感じで言っていたのが、終いには

「女の人が帰って来たわ!」という始末

そして何よりも妻がショックを受けたのが、あるお婆さんのお客さんが

「ママの娘さんが帰って来ましたよ!」と。

このお婆さん、悪気があって言ったのではなく、本当に私が妻の娘と思っているようなんです。

妻にとっては最大の侮辱です。

二人で買い物に行っても、私は妻の後を付いていきます。

スーパーでは、お店の方が私に向かって、「奥さん、今日はいいのが沢山入ってますよ~」と

妻に丸聞こえです。

そんな毎日が続くと、妻もノイローゼになってしまいます。

私と一緒に買い物に行く事も無くなり、休みの日にも私に対して、「家から1歩も出ないようにして!」と

それからというもの、仕事に行く以外は家に閉じこもったまま。

とうとう、妻は私の実家に行き、私の両親に、「離婚をしたい」と申しでます。

妻は、私の両親とはとても仲がよく、両親も妻を絶対的な信頼を抱いています。

なんとかその時は治まったのですが、それから数日後の日曜日

母が家にやってきました。

母は、頭を畳にこすりつけて妻に謝ります。

「この子がこうなったのも私の責任やねん、本当に御免ね!」

80近い母が妻に詫びても、妻には全く聞き入れられません。

そりゃあ当然の事です。

これ以上夫婦として共同生活を続けていく事ができません。

毎日が針の地獄

それでも、妻は、私の女性物の下着や服を文句を言わずに洗濯をして下さります。

その姿を見ていると、目から涙がこぼれています。

初めは、「あんたの病気は、私が治してあげる!」と言っていたものの、私は妻の希望に反してエスカレートするばかり。

ある時、妻は私にポツリと言いました。

「女性ホルモンって本当に怖いねぇ~」

私もこれ以上、この家に住んでいると妻が発狂してしまうと思い、勤務先の病院にある看護婦寮に住む事になったのです。

続きは、「既婚者の性同一性障害の治療について:破局編」で


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既婚者の性同一性障害の治療について:後編

こんにちわ~、のんびりのん子です!
既婚者の性同一背障害の治療について:前編の続きです。

「私、女になりたいねん!」


そう言ったものの、声を出すだけで精一杯です。

まるで蚊が鳴くような声

涙が出るのを堪えているのが自分でも判ります。

その時は女性ホルモンを初めて既に4ヶ月経過しています。

当初服用していたホルモンは、ニューハーフさんの定石となっている「プレマリン1.25mg」を1回2錠を6時間おきに4回、そして「ブロベラO.5mg」を朝夕、そして男性ホルモンを抑えるために、抗男性ホルモンである、「アンドロキノン」を1日1錠。

抗男性ホルモンを併用しているので、女性ホルモンだけを服用するに比べて男性的な特徴を抑えるのにはすごく効果があるみたいでした。

当然、女性ホルモンの副作用として精神的にすごくもろくなっています。

ちょっとした事で涙ぐむようになり、一時期はうつ病のような状態になり、メンタルヘルス科でのカウンセリングも受けるようになっていました。

当然、妻は薬を飲む事を反対します。

妻に今まで隠していた、いわゆる自分が人に言えない性癖を持っていることを知らせます。

それが、「性同一性障害」という病気の一種である事を説明するのですが妻は

「あんた、今まで、立派に、父親として、夫として頑張ってきたんやない!」

「なんでいまさら、そんな事を言い出すのん?」

「あんた、オカマになりたいの?」

「わたしじゃあ駄目なの?」

「わたしより、男の人が好きなん?」


結婚して22年、他人から見れば羨ましいくらいに仲の良い夫婦に見えていた。

妻には、私が妻に隠れて女装やお化粧をしたりしていた事を泣きながら説明します。

ところが、妻は私が女性の服や化粧品を持っていることを知っていたようでした。

でもその事について、何も言いませんでした。

それは、私が、「ひょっとして下着泥棒をしているかも知れない?」と心配していたそうです。

自分自身でスーパーに行って購入したり、妻と買い物に行っても、別行動で別のお店に行き、女性物を洋服を購入したり、妻が寝静まった夜中に、こっそりとお化粧をして女装姿で家を出て、ドライブに行った事などを彼女にこと細かく説明します。

車には、お化粧落としのティッシュがあったり、マニキュアでシートが汚れていた事も知っていたみたい。

でも、その事を私に尋ねる事が怖かったとのこと。

「うちの人は、そんな事をしていないように・・・・」そう、ずっと願っていたとの事。

下着泥棒で無い事で少しは安心したみたいですが、私が女性の恰好をしたり、女になる事には絶対に反対です。

当然、世間体もあるし、「二人の子供の父親として尊敬される人であって欲しい!」

妻は普段から、子供の手前、常に私を立ててくれます。

子供がおもちゃが欲しいと言っても、「パパに聞いてから!」

夕飯でも、「パパが帰ってから一緒に食べましょうね!」

子供が小さい頃は、週に1回は家族揃って外食に行き、3ヶ月に1度は泊まりがけの家族旅行に行っていました。



そんな幸せそうな生活が続いたのですが、事務職である経理課から、なんと設備管理課に配属

今までなら、定時に近い状態で仕事が終われていたので、妻から電話が掛かってきて、家族揃っての外食などの誘いがあってもなんとかやりくりをつけることができました。

ところが、設備管理課に変ってからは、新しい事ばかりで分からない事だらけ。

建物図面なんて、この線が何であるのかちんぷんかんぷん。

建築図面を理解するためにすぐに電気工事士の資格を取り、CADの勉強も独学で覚え、建築基準法や溶接資格、果ては、市民消防学校に通い防火管理者の資格も取り、自衛消防隊の隊長に任命されます。

冷凍機の勉強も行い、エアコンの修理や取り付けをしたりと毎日が初めての経験。

建物が古いので、朝出社すると、空調用の冷温水のパイプから水漏れが発生していたりして修理の為に、3日ぐらい泊まりがけになったりするのは日常茶飯事の毎日。

そんな事が続くと、家族達も私をあてにしなくなります。

私自身も、設備管理課への移動になった時も、当初の約束では1年ほど行ってもらって、再度経理に戻ってきてもらうという約束だったのが、2年、3年と経過しても全くそのような様子がありません。

何で無くても、今まで鉛筆以外は持った事がないひ弱な私

その間、工事中に無理をして腰椎捻挫をして1ヶ月の入院をしたり、1日中屋外や屋上での仕事で色白で白魚のような細い指も節くれだち、まるで漁師のような真っ黒な漁師の顔立ち。

エアコンの取り付けで天井内で配管の溶接をしているときに、2000℃近くに熱した導管に腕が触れて大やけど。

いまだにその後が残っています。

自分なりに一生懸命、男を演じてきたつもりだったのですが、いつのまにか限界を感じてきます。

「私は、本当は、女なんだ」

そんな気持ちがどんどんと大きくなる毎日。

それでも、「二人の子供だけはきちんと成人するまでは男の責任として育て上げなければならない!」

そう言った義務感だけで頑張れてきた。

それが、ちょうど、二人の子供が二十歳を過ぎ、ふと目に止まった、「性同一性障害」という言葉。

自分が果たして、「性同一性障害」なのか?

妻と一緒に岡山大学病院の診察を受けに行きます。

初めて行ったのは、2002年の6月、女性ホルモンを服用し出して既に4ヶ月以上経過しています。

抗男性ホルモンを併用していた事もあり、泌尿器の診察では、診察に当たってくださった教授からは・・・

「既に、去勢状態になっています!」との診察

妻にして見れば、ショックのあまりに声が出ません。

それでも一途の望みをかけて、

「あんたの病気は、私が治してあげる!」

そう言ってくれた妻

でも、妻の願いも空しく、この診断が家庭内の崩壊に繋がるとは、私を含めて誰も予想もしなかったのです。

続きは、既婚者の性同一背障害の治療について:結末編で


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やっと、女になれました。
いい女になるのだから・・・・・・

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